日蓮大聖人のご一生は,法華経の行者たる自覚に生き、そのご自覚に基づいての、上行菩薩として行動されたご生涯でありました。撰時鈔というご書の中でも「日蓮は日本第一の法華経の行者なること、あえて疑いなし」と申されております。ともあれ、大聖人は法華経の教えをこの世に弘めるために、大変ご苦労をされました。
つまり、大聖人の身の上には,法華経を弘めようとすればするほど、いろいろな迫害が競い起こり、大難や小難が数々押し寄せてきたのです。当時、法然上人とか、親鸞上人など、高僧と呼ばれた僧侶がおりましたが、日蓮大聖人ほどのご苦難を蒙られた方は全くありません。しかしながら、経文の中には仏滅後、末法の世において法華経を弘める者は、悪口罵詈、刀杖瓦石などのあらゆる難に遭い、その上、数々の追放の迫害にも遭遇するであろう、と説かれてありました。その事実を身を以て確認された大聖人は、「正に経文に符合せり」と、難のくるごとに逆に大変喜ばれたのであります。末法の世というものは、穢れた機根や気性、また沢山の罪障を作っている人々が充満しているため、お経の中でも、その王といわれる法華経に救いを求めなければ、世の中はますます悪化するばかりなのです。しかし、悪のはびこる世の中に、善を広めようとしますと、悪はあらゆる抵抗をして善を妨害します。この抵抗が迫害という形になって、法難を起こしてくるのです。したがって末法にあっては、法華経を持つ者には悪が寄ってたかって迫害するだけに、もしこうした難がこないとしたら、かえって法華経は偽りである、とまで述べられています。開目鈔に「日蓮が流罪は、今生の小苦なれば歎かしからず。後生に大楽をうくべければ、おおいに悦ばし」と、受難を恨むどころか、受難こそ仏の使いのしるしである、と悦びにかえておられます。かくして、数々の法難にも大聖人は、益々自信を深められ、更に上行菩薩の生れ代りというご自覚に達せられました。そして、「我れ日本の柱とならん。我れ日本の眼目とならん。我れ日本の大船とならん等と誓いし願、やぶるべからず」と三つの大誓願を立てて、どんな苦難にもめげず、法華経を身に読まれ,不自惜身命でご弘通一途のご生涯を貫かれたのであります。
ご生誕(1222年)
日蓮大聖人は、鎌倉時代の初期である貞応元年(1222年)二月十六日、現在の千葉県安房小湊で漁師の家に誕生され、父を貫名重忠、母を梅菊と申されました。
大聖人はご自身の出生については、「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ、旃陀羅が家よりいでたり」とお述べになっていますが、当時、大方の僧侶達は、家柄が非常に厳しく、皇室の出身とか、名門出が多かった時代にありながら堂々と自分は身分の賤しい家の生れである、と申されたことは、大変勇気のいることでした。しかしご両親の姓名から考えますと、以前はどうも公家か、貴族のご出身のようにも思われます。いずれにしましても、正しい仏法である法華経を行ずる身には、氏、素性など問題ではなく、一人でもこの世の者を救うことが、真の仏法のあり方だということを衆生に示すために自ら旃陀羅の子、と申されたようであります。
大聖人は幼名を善日磨(ぜんにちまろ)といわれ、十二歳のときに、郷里近くの千葉清澄寺に登って修行をされ、十六歳になって得度し、蓮長と名のられました。
出家の動機
出家の動機については、次の三つの原因があったといわれています。
一、人生に対する疑い
一、仏法(過去の)に対する疑い
一、国家に対する疑い
| 人生に対する疑い | 大聖人は幼少のころから、人生とは何か、そして死は一体何を意味するものか、など、誰しもが一度は考える人生の疑問からやはり出発しておられます。 |
| 仏法に対する疑い | 同じ仏の教えでありながら沢山の宗派に分れているのは一体なぜなのだろうか。しかも各々自分の派こそ一番優れている仏法だと争っているが、いったい真に人を救う宗派とはどれなのであろうかという疑いでした。 |
| 国家に対する疑い | 大聖人がお生まれになる前年に承久の乱が起こり、この戦いで朝廷側が破れ、後鳥羽、土御門、順徳の三人の上皇は、臣下である鎌倉幕府の実権者、北条義時執権によって島流しにあわれました。この乱を大聖人は子供心にも、力の強い者が天下を制し、道理を無視して、社会を支配していく、主客転倒が公然と行われる、そうした国家のあり方に、大きな疑いを持たれました。 |
以上の三つはあくまでも人生や、当時の仏法のあり方、及び社会の秩序のあり方に対する疑いでしたが、必ずや仏法の中には、その真理が存在するはずだという求道心から、清澄寺(当時は天台宗)の道善房に師事し、ひたすら仏道に励まれたのであります。その後、鎌倉や比叡山に登り、南都六宗や、諸宗の教義をことごとく修学されました。
立教宣言(1253年)
大聖人は仏法のすべてを学び尽くされたのち、再び清澄寺に帰り建長五年(1253年)四月二十八日の早暁、清澄山旭の森の山頂において、昇りくる朝日に向い、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と釈尊ご入滅後はじめてこの世に向ってお題目を唱えられたのでした。これが法華経を弘められるためのいわゆる「立教宣言」でありました。

この期に、蓮長から日蓮と改め、本格的な布教を行うために、当時、政治の首府であった鎌倉に入り、松葉ガ谷に草庵を結びました。しかしこれから大聖人は、大難四たび、小難に至っては数知れずのご法難のご一生を過ごされることになります。以上ご法難を通じてご生涯を綴って見ましょう。
松葉ガ谷法難(1260年)
鎌倉に布教の拠点を設けられた大聖人は文応元年、立正安国論を認め、鎌倉幕府の前執権で時の権力者、北条時頼に、寺社奉行の宿屋光則を通じて提出しました。
この内容は“法然たちの念仏や、禅などの教えは誤りで、末法にあっては世の人々を救えないばかりか、かかる邪教を幕府がやめさせなければ、現在しばしば起こっている地震や悪病は止まらない。しかも近いうちに国内では謀反が起こり、外国からは攻められるだろう。こうした難をまぬがれるには、法華経の教えに基づいて政治を行わねば、世の中は益々悪化するばかりである”と国の為政者に反省を求められたものであります。
そのため、各宗派からは反感を買い、幕府は権力を以て弾圧してきたのです。それが松葉ガ谷草庵の焼打ちという形で現われました。
伊豆配流の法難(1261年)
松葉ガ谷草庵打ちで、大聖人をすでに亡きものにしたと思っていた幕府の役人たちは、しばらくしてから、再び鎌倉の小町に現われて説法をしている大聖人を知り、大変驚きました。早速説法中のところを逮捕して、由比ガ浜から伊豆へ流罪にしました。
その日、海が荒れ、役人は途中の伊豆沖の岩礁に置き去りにして帰ってしまいました。この岩は潮が満ちると海中に没してしまうという恐ろしい場所でした。
ところが大聖人はすでに岩が海の中に没し、身体半分以上海水につかりながらも、お題目を口唱しておられました。
近くでその声を聞きつけた漁師の船守弥三郎は小船でかけつけ、お救いしました。それから暫らく弥三郎夫婦は漁具を納めていた洞窟へかくまい、外護したあと、この地の地頭、伊東八郎左衛門の屋敷へ預けられましたが、弘長二年三月二日、幕府より赦免状が出て、一年十ヶ月に及ぶ配流を経て、鎌倉へ戻られたのです。
小松原の法難(1264年)
伊豆から帰られた大聖人は、翌年の文永元年八月、母梅菊の危篤の知らせによって、すぐさま安房小湊に帰郷しましたところ、たった今、こと切れて、周囲の人々が悲しみの涙にくれているところでした。
早速大聖人は、自分の法華経帰依の功徳にかえて、何とかもう一度、蘇生して頂きたいとご祈願されましたところ、経力により息を吹きかえされ、その後四年の寿命をのばされるという現証をうけられたのであります。
このあと大聖人は、天津の領主、工藤吉隆の招きによって、天津に向う途中の小松原の松林で、念仏の強信者で、大聖人に怨みを抱いていた当地の地頭、東条景信一派に襲われ、刀で切りつけられて、ひたいに傷を受け、危く命を落されそうになりました。またそのときかけつけた工藤吉隆や、お弟子の鏡忍房が討死するという法難を蒙られたのです。
竜ノ口の法難(1271年)
それから五年目の文永五年、蒙古来襲の知らせを聞かれた大聖人は、立正安国論で述べた他国侵逼の難が的中したことや、外敵が攻めてきたことに動揺している民衆の心をおさめるには今こそ政治をゆがめている邪教の排除が第一であるとして、再び時の執権であった北条時宗を始め、十一名の主だった人物に警告状を出し、諸宗と公の場での対決を迫ったのであります。
そのために、これ等各宗派の者たちから、恐れ、憎まれ、“この文書は、法華経を利用して政治を乱す行為である”と中傷して幕府を動かし、大聖人を亡き者にしようと謀りました。
その結果、文永八年九月十二日、役人たちは大聖人を松葉ガ谷の草庵で捕え、市中を引き廻しのうえ、片瀬(藤沢市)の竜ノ口刑場において殺そうとしました。ところが、正に首を斬らんと役人が刀を振りかざした刹那、突然稲妻のような光とともに、刀が三つに折れるという、法華経の大現証が現われ、ついに聖人の首を斬ることは出来ませんでした。
こうして役人の死刑執行も、法華経行者の前には通じないことを、幕府や諸宗の僧に、はっきり示した結果となりました。その夜近くの岩窟に留められたのち、翌日は依智の本間重連の館へ移されました。
佐渡配流の法難(1271年)
大聖人の処刑に失敗した幕府は、死刑をあきらめて今度は佐渡に配流することにしました。
いよいよ北海の孤島佐渡ガ島へ発たれようとする時、牢に捕えられているお弟子の日朗師にお手紙を認められ
「日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜のさむきに付けても、牢のうちのありさま、思いやられて、いたわしくこそ候へ」
といたわりの言葉をおくられるなど、ご自身がこれから配流という厳しい世界に赴かれるにもかかわらず、弟子の身を案じられた、誠に慈悲深いお心がうかがわれます。
こうして文永八年十一月八日、佐渡へ流された大聖人は、塚原にある一間四方の破れた堂の中に送り込まれたのでした。この日から大聖人は寒さと飢えに戦う一方、地元の念仏者からも数多くの迫害を蒙られました。
その後一ノ谷に移られた大聖人は、開目鈔や観心本尊鈔など、重要なご書を著わされ、またご自身はここで上行菩薩の生れ代りであるとのご自覚をはっきり持たれるようになりました。
かくして二年半に及ぶ配流生活を佐渡で送られましたが、文永十一年幕府より赦免状が届き、再び鎌倉へ戻られたのです。
身延への入山(1274年)
鎌倉へ戻られるや、幕府は打ってかわって、「今後法華経を穏かに布教するならば、あなたに寺を建て、一千町歩の領地もあげましょう」と提案してきました、これに対し大聖人は、「私の目的は、正しい教えを弘めて、日本の国を安泰にし、また多くの困っている人々や、苦しんでいる者を救うことが目的であるから、布教の手をゆるめることは出来ない。したがってそのような寺や土地は一切いらない」
と毅然とした態度で、妥協案を断ったのでした。それどころか逆に法難をも恐れず、なおも三度び幕府に対し熱烈に折伏しましたので幕府はその仕返しに、今度は弟子や信者を捕え、殺すという暴挙をまたもやくり返してきたのです。
そこで大聖人は、「国に報ぜんがために三度までは諫暁すべし。用いずんば山林に身を隠さんとおもいしなり。また上古の本文にも、三度の諫め用いずば去れというにまかせてしばらく山中に罷り入りぬ」と仰せになって、文永十一年の五月二十二日信徒の波木井実長の領地である、人里はなれた山草の深い身延の山に入られたのでした。
こうしてやっと多難に満ちた生活に終わりを告げ、静かにその余生をお弟子の教育や、信者へのご教導、また後世のために種々のご著述をされる日々を過ごすことが多くなりました。
しかし多年に亘る受難によって、すっかり痛めつけられた肉体には、身延の寒さが身にこたえ、食生活も山中ゆえ、栄養的にも満足のいくものではありませんでした。その上慢性の下痢症状に悩まされながらも、大聖人はあくまでも強じんな精神力で、日々法華経を身に読まれての日課を送られたのです。
ご入滅(1282年)
しかしながら、衰えられていく大聖人のお体を案じていた弟子信者の強いすすめで、やっと弘安五年九月八日、七年余にわたった身延を下山して、常陸へ湯治に向われることになり、十八日に池上宗仲の館に着かれました。この時すでにご寿命を察せられていた大聖人は、途中の池上邸で、六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)を定めてご遺言、かたみわけまでされ、更に枕辺に幼少の経一麿(のちの日像)をお呼び寄せになり、
「この日蓮は、今生で、直接天皇に法華経をお伝えする機会を得られなかったことが大変心残りである。しかしお前は日蓮の遺志を実現できる器であるから、大きくなったら、仏道を修行し、日朗を師と仰いで、正しく法華経を学び、日本国のためにその目的を達成するように」
といい遺され、弘安五年十月十三日、門下一同の唱題のうちに辰の刻(午前九時)六十一歳を以って、この末法の世に法華経を弘められるための多難なご生涯を全うされて、やすらかにご遷化。ご遺骸は荼毘に付され、ご遺言によって身延に納められました。
日蓮大聖人と同郷の千葉にご誕生 明治十二年十一月十九日、当会の会祖日現聖人は、千葉県の長生郡豊田村小林(現在の茂原市小林)に、父大塚重平氏、母世与女の長男として誕生されました。
会祖二十四才のとき、母が悪性の眼病に罹り、医薬ともに見離され、失明寸前に至ったとき、近所に人のすすめによって、近くにある本門法華宗(現在は法華宗本門流)大本山鷲山寺に日参し、その熱烈な祈願によって、奇蹟的な現証が顕われ、不治といわれた難病も全快したのでした。
出家得度の動機
こうした現証を目のあたりに体験した会祖はすっかり感激し、この立派な法によって、病に悩む人や、不幸に苦しむ人々を救おうと決意し、早速病人を探してはお助行し、その都度見事な現証を体験するに及び、益々ご法の正しさに自信を深めていきました。
そしてこの大法、本門八品のお題目こそ全てを救う正法であると、ますます確信を得、母の病気全快の報恩感謝のためにも、多くの人々を教化し、正法を弘めてゆくことが自分に課せられた使命であると自覚し、明治四十二年六月十二日、大本山鷲山寺において、時の院代小野山日風師(のち大本山妙蓮寺加歴貫首、権大僧正)を得度師と仰ぎ、貫首の御牧日聞師(大僧正、仏立二世講有)から僧名を現楠と撰名を受け、出家得度したのであります。
時に会祖は三十一才という年を迎えていましたが、他の若い先輩僧に混って本山で師僧に給仕奉公する一方、早速教化や下種折伏に励み、病人はもとより、不幸な家庭、非行者の更生等にも、このご法によって救済するなど、僅かな間に二百名を越す入信者が出来るほど、正に獅子奮迅の勢いで法を弘めていきました。
こうした会祖の熱烈な布教ぶりを見た地元の人々の口からは
「鷲山寺の現楠師(のち日現)は世にも稀な傑僧だ、日蓮聖人の再来ではないか」
という噂が高まり、「今日蓮」という呼称さえ出るほどになっていきました。
当時の寺院や僧侶たちは、従来の檀家を後生大事に守るのみで、形式的な過去の因習にこだわり、多くの難解な経文を読み、法要儀式中心の仏事が行われていた時代だったのです。
そうした中で、会祖は人を見ては法を説き、一人でも多くの者を救わんと、次々に教化を進めたものですから、他の寺院からは檀家を奪われることを恐れて、妨害する一方、鷲山寺内部の諸僧からも嫉妬され、会祖の行動をいろいろな形で邪魔し、あまつさえ師匠に讒誣中傷するなど、ことごとに、あらぬ噂をまき散らしたため、会祖は師匠から誤解を招き、破門されるという、法難に見舞われることとなったのでした。
本山を離れて獅子吼会設立
こうなると、もはや自己の信念の基づいて独自に布教の道を切りひらくより他にないという状況に至った会祖は本山を離れ、身一つで布教の陣頭に立とうと決意することになりました。
そこで日扇聖人の遺文(高祖一代記)の「寺にもよらず、衣にもよらず、格式にもよらず、法によらねばかなわぬことなり」という布教の基本に立って、郷里小林に戻り、大正二年二月十六日、日蓮聖人ご生誕の意義ある日に、実家のご宝前において、身内の者と、ごく一部の信者を集めて、大日本獅子吼会の創立宣言を行ない、正法弘通の一大決定をここに誓願されたのであります。
早その翌日には、東京へ向け弘通の旅に立たれました。背には米や味噌などの食糧を担い、両手に手廻り品を持ち、八十キロにも及ぶ道のりを、二月という厳寒の中、野宿しながらの歩きで、いまでは全く想像もつかない旅立ちでありました。
道すがらにも人々に法を説き、東京へ向いましたが、正に無からの出発だったのです。
東京へ入るや、当時一番の貧民街といわれた浅草橋場をあえて選び、難病に悩む人々を探しながら血のにじむような苦しい布教活動でした。
宿は千葉の本山にいた頃、教化した二、三の人々が、上京していたので、そこへ交代で泊めて貰い、食料がなくなれば、遠い道のりを郷里へ戻り、再び背一杯の荷物を持って、繰り返し、繰り返しの行き来を重ねたのでした。
「本門法華宗獅子吼会」本宗に認めらる
その熱心な布教活動により、教化された人は次第に数を増し、浅草界隈では会祖の存在が大評判になり、“在家の服装で法華経を説き、どんな難病でも治す不思議な坊さん”と噂されるようになりました。
ところが、そうした声があがると、またもや嫉妬する僧や、布教を邪魔する者が次第に多くなり、ついには法華宗の宗務庁まで中傷が頻々と舞込んでいきました。
宗務庁としては、こうした中傷や投書を無視するわけにもゆかず、会祖の布教の実態を調査すべく、大正四年、当時の宗務総監森智孝師が、布教の足場としていた中島栄三郎氏(のちお弟子となった楠旭師)宅を訪れ、直接会祖を査問しました。
しかし調査するに従って、会祖の布教の精神や、弘通の実態が模範となる程立派であることが判明し、総監は“真に法華経を身に読み、正しく実行している僧侶であると、すっかり感服し、その旨宗内幹部に報告され、宗内一致で「本門法華宗獅子吼会々長大塚現楠」が名実ともに認められたのであります。
この頃、会祖は師匠から破門されており、僧階もなかったのですが、森総監の計らいで、会祖を改めて大本山光長寺(沼津)へ僧籍登録され、また一挙に中講師の僧階まで与えられるという、破格の処遇を受けたのでした。
念願の布教道場を設け、師との和も戻す
十月には浅草橋場に、借家ながらも「大日本獅子吼会橋場親会場」と念願の看板を掲げ、下町一帯の人々の教化に益々全力を注いだのです。
やっと教化活動も軌道に乗った頃合いを見て、会祖は師匠との和を戻すことに心を砕きました。周囲の中傷によって破門されたこととはいえ、今日仏道に帰依して布教することが出来るのも偏に厳しい師匠のお蔭によるものと、自ら進んで和を求め、その後、生涯師に対する給仕奉公の誠を捧げるという、師孝を尽くして行くことになったのです。
会祖は常々“わたしには三人の師匠がいる”といわれました。その三師とは、得度師の小野山日風師、得度親の岡野現相師、そして査問の折、会祖の布教に心から共鳴し、獅子吼会会祖の布教に大きな原動力を与えてくれた森智孝師です。会祖のこうした親や師匠に対する知恩報恩の実践は、終生変わることなく続けられ、弟子信者にも常に言行一致の教えを垂れていました。
盛んな小石川布教時代
会祖の布教は留まるところを知らぬ勢いで、年を追うに従って信者の数が増し、橋場の親会場も手狭になりましたので、大正九年十一月に、小石川の水道端に大きな家を借り、そこに道場を移しました。
それを機に、横浜支部を手始めに、各地に支部を設立して、東京から地方へと教化の手を拡げていきました。
中井の丘に大本堂を建立 〜高祖ご入滅六百五十年遠忌に〜
会祖は獅子吼会創立の当初から、昭和六年に迎える高祖ご入滅六百五十年大遠忌までには、必ず日蓮大聖人のご本意に添った法華経の殿堂を建立し、広宣流布の拠点を確立したいと、日夜誓願を立てておられました。
当時の小石川親会場は、信者の増加と借家のために改造が出来ないことで、すでに大正末期から慎重にこの計画を立てて、孝養閣(旧)と別院の建設を始め、更に五年後には大本堂の完成を見ることとなったのであります。
新宿区中井にある本部大本堂は、それ以降、第二次大戦中の爆弾、焼夷弾の落下にも拘わらず、何ら損傷を受けませんでした。
更に、父重平氏の遺言に基づき、故郷の恩に感謝するため、千葉の生家を取りこわし、根本道場を建立、廃寺になっていた近くの道教寺をここに移しました。
またその境内に両親の銅像を建て、生前同様の給仕をして法華経行者のあり方を示し、弟子信者に有言実行の範を示されたのでした。
戦時下の会祖
昭和六年頃から満州事変、上海事変、支那事変、更には第二次大戦と、わが国は軍事的、戦時的に推移し、遂には敗戦という結果になったわけですが、その間会祖の布教にもいろいろと制約が加わってきました。
特に言論の弾圧が激しくなり、ある時は獅子吼雑誌に掲載された法門にも、特高警察から横槍が入り、一年後に不起訴にはなったものの、軍部の干渉は一段と厳しさが増してきました。
しかし会祖は少しもひるむことなく、ゲートルに国民服といういで立ちで、混み合う電車を利用し、六十才も半ばを過ぎながら連日布教に明け暮れ、国土安穏、万民快楽の祈願を続けました。
また一方では社会事業にも力を注ぎ、法華経の精神に則った非行少年の感化育成指導に着手、司法保護団体獅子吼園を設立しました。この経営に当っても国からの補助金を一切辞退し、信者からのお布施を充当し、会の運営や自らの生活を節して当たられたのであります。
天皇、皇后に拝謁しお題目を言上
昭和二十年八月十五日、ついに建国以来始めて外国との戦いに敗れ、長い間の戦争も、ようやく終りとなりましたが、この当時、会祖はご法門で、「戦争は敗れるべくして敗れたのである。飛行機や、鉄砲の弾が足りなくて敗れたのではない。日本人の心の中に、立正安国、仏国土建設という、法華経の精神が全く無かったからである。敗戦下、これから国民には大変な苦難があるだろう。今こそ法華経の広宣流布が急務である」と述べられました。
そして、またもやその日から会祖の奮迅の布教活動が始まったのはもちろんのことです。そうした折、会祖が生涯の念願としていた、天皇、皇后両陛下に拝謁する日がついに訪ずれました。
会祖は、この日こそが日蓮大聖人のご遺志である“一天万上の君へのお題目言上”の絶対の好機であるとの信念で臨まれました。
大聖人のこのご遺言は、日蓮門下にあって唯の一人も実現出来なかっただけに、会祖はいまこそ自分に与えられた使命とも考えました。
昭和二十一年九月二十三日。両陛下の御前に進んだ会祖は、宮内省と事前の約束にない無始已来……の誓詞と、お題目を冒頭で言上しました。慌てたのはお側にいた侍従や、宮内省の役人達で、会祖の袖を引張って中止させようと努めました。
ところが少しも動じない会祖は、とうとう最後までやり通し、自分のやっている少年保護事業をはじめ、今日迄の法華経の精神に基づく会祖の信念につき、ご進講を言上したのでした。
会祖の遭難と妙の現証
会祖のこうした心願成就の反面、大きな試練もありました。それは昭和二十三年一月七日、布教の途次、乗用車のダットサンが西武電車と衝突するという大事故でした。
この日、朝からの数軒のお講のあと、石神井支部講に向われた車が、支部を目前にした西武池袋線の無人踏切にさしかかった際、上り通過を見送ったあと、急カーブの下り線で見通しの悪いのが災いして、踏切途中で下り電車に激突したのです。
当時のダットサンは今日の軽乗用車程度の、マッチ箱を大きくしたような形の車ですから、電車と衝突してはたまりません。メチャメチャになってしまいました。
誰が考えても乗っていた三人共々命を失ってしまったであろうと思われましたが、全くの妙不可思議の現証としかいいようもなく、お伴の二人は僅かに軽傷、会祖も打撲傷だけという結果でした。
常日頃、法華経のお護りを説く会祖が、身を以って自ら実証された尊い現証であったのです。
異例の形で大僧正に昇叙
会祖の日頃からの真の護法愛宗の精神と、宗教家として、また法華経の実践者としての、傑出した法労に対し、昭和二十三年十一月十九日会祖の誕生日に当り、宗門では僧階最高の大僧正位を贈ることとなりました。
本来、大僧正は、本山の貫首に就任した者(権大僧正の立場)が輪番制で一年ごとに法華宗の管長を務めることになっており、最初の管長に就任した時に始めて、大僧正に昇叙する慣わしとなっています。
会祖は鷲山寺貫首への要請が度々あったにも拘らず法務多忙を理由に辞退しておりました。貫首も管長も務めない者が、いきなり大僧正に叙位されるという例はありません。宗門が、それでも贈ると決定したのは、いままでの事蹟がいかに大きかったということであります。
この後、数次の貫首招請を受けて断り切れず、昭和二十六年三月には鷲山寺九十一世貫首に就任、その五月には法華宗議会議長、さらには昭和二十九年五月に宗門最高の地位である法華宗管長に就任しました。
止暇断眠の肉体に病魔犯す
昭和三十年七十七才の高令に達した会祖は、全く若者をしのぐ元気さで法用の日々に明け暮れていましたが、その翌年あたりから体の不調を訴えたため、早速精密検査をうけたところ、胃の噴門部に癌の徴候が見られ、手術も不可能なほどで、二〜三ヶ月の寿命であろうとの診断が下されました。それまでに病勢が進んでいようとは誰しもが思わぬ程、会祖の布教活動が日々変らなかったというべきでしょう。弟子信者は早速連日連夜、猛烈なお助行を行ないました。
会祖はすでに病状を察知していながら全く泰然自若とし、反対におろおろする周囲の者をなぐさめ、気を配るという有様でした。
会祖は、人間は死を免れないものとはいえ、癌を克服して、現証をはっきり我が身で示すことが、この際一番大切なことであると考え、弟子信者にそのことを伝えると共に、お助行のあり方について厳しい指導を与えたのです。
その結果、一ヶ月後の検査では癌らしい痕跡は何一つないという程に快癒したのでした。
このことは、会祖が弟子信者に常日頃法門した通りの法の尊さを体験させたもので、その驚異は今も語り継がれている大現証であります。
その後しばらく大津で静養した会祖は、三十二年一月に帰京し、また以前と変らない法用に東奔西走の日々が続きました。
遷化を迎える
会祖は出家得度以来、一日たりとも、私事に費したことがなく、常に“導師は朝起きてから夜寝るまで、いや寝ていても法華経のことばかり”と語るほど法華経の弘通以外には何物もないというお方でした。
夜、二時三時に床に入っても、必らず五時には目を覚す程に体を酷使しながら、広宣流布に努めるという方ですから、やはり七十も過ぎると老衰が顕われるのもまたやむを得ません。
ましてこの年になって大病と闘うという日々を過ごしてきましたので、六月頃から床から起きられない日が続くようになりました。
床にありながら、弟子に対しては厳しく指南を続け、信者からの相談を受けるということは日々でしたが、やがて七月にはそうしたことも出来ない程に衰弱し、声が出ない状態となり、筆談をもって面会者に別れの言葉を交わし、信者一同には別れの挨拶を口述筆記させ、総講日に発表するなど、最後の最後まで弟子信者へのいつくしみを吐露し、私達一同に筆舌に尽くせない程の感動を与えられました。
入寂が間もないことを自覚された会祖は、現楠副導師(二祖日e聖人)を枕辺に呼び、自分の遺した法務を一切ご遺言、三世正信師(のちの日正猊下)にも会の将来と法座を継ぐ立場の心得を諄々と諭されましたが、七月二十八日午後一時、弟子一同の唱題の中、弟子親族にかこまれて、眠るが如くに安らかにご遷化になりました。御歳七十九才、(満年令では七十七才と十ヶ月)でした。
ここに七十九年に及んだ人界の大導師、日現聖人は法華経行者として、衆生救済の大役を終えられたのであります。
誕生と幼時の想い出
二祖日e聖人は、明治四十四年二月七日、父である会祖日現聖人と、母八重子女の次男として、会祖のご誕生地と同じ千葉県長生郡豊田村小林に誕生され、幼名を治庄と申されました。
父親である会祖聖人は、それより二年前の明治四十二年六月に大本山鷲山寺で得度され、出家の身となられ、大津の仏立寺で日風上人の下に給仕ご奉公に励んでおられた時でした。
母八重子女は、陰ながら夫の布教を扶け、留守宅を護り、同時に年老いた両親に仕え、親子水入らずのひとときさえ全くなかったと思われます。
二祖の折々のご法門にも、「母親の膝に抱かれた想い出よりも、浜子姉と一緒に留守居をして、面倒を見て貰ったことが懐かしい」と思い出を語られていたことがありました。
得度して法燈を継承される
昭和三年十月十二日、会員一同が待望していた治庄氏の仮得度式が挙行され、獅子吼会二世法燈継承者として、正式に発表されました。
会祖聖人はかってご自身の得度に際し、御牧日聞上人から賜った「現楠」の僧名を、そのまま譲り渡されましたが、そこには、会祖聖人と同様、あらゆる艱難辛苦を乗り越え、苛烈な修行に打ちかつようにとの、願いを秘めての撰名であったと思われます。
この日得度親は、当時の第八部長、大福証券社長の永田公楠氏でありましたが、来賓の祝辞等を数々を受けられた現楠子は、先ず大勢のご信者方に謝辞を述べられたあと、
「私もまた、恩愛不能断 真実報恩者のご文に添い奉り、御師匠がなされた如くに、道を違えず、出家たる本分を自信をもって、行学二道に勇猛精進し、ご期待に添う決意であります」との決定を披瀝し、世俗の親への甘えをすてて、親は師、子は弟子という法の道のもとに、厳格、峻烈な修行と給仕奉公が、この日より新たに続けられていくこととなったのであります。
学問にいそしむ青年時代
日本大学宗教科を出られた後、さらに法華宗尼ガ崎学林において、当時学林長であられた釈日遵師ならびに諸先生から、宗学一般について教導を受けられました。
もとより会祖聖人のきびしい薫陶をうけ、教学の勉強に余念のなかった二祖は、爾来、次々と独自の論文を仕上げていかれました。
法話断章天の部に集録されている法話には、十八才のときのものから始まっており、如説修行鈔の釈意は昭和十四年ごろから、会誌、獅子吼世界に連載されているという程で、法門無尽、自由自在に聴衆をして飽きることのないユーモアに溢れ、そしてピリツと引きしまったご法門によって、人々を魅了させられたのも、遠くお若い頃からの勉学の蓄積であったのです。
少年と共に農耕の明けくれ
会祖聖人が司法保護事業に非常な熱意をもやされ、司法保護団体獅子吼園を設立された昭和十四年頃、二祖も、園主宰者の命を受け、自らも保護司として、非行少年等の指導に当たられました。
とくに、戦時中から戦後にかけてご自身が住居とされていた石神井農園は、三千坪余(約一万平方メートル)に及ぶ、田畑の農耕を、ご自身が先頭になり、弟子を交えて、少年達数名と鍬を持ち、肥桶を担い、食糧増産に精を出されたのでした。
これは農作業を通じて心身の教育を行ない、併せて農耕の厳しさの中から収穫の喜びを得ることを教えられたもので、苦しさの中にも慈愛に満ちた日々の生活でした。そしてどれだけの少年が、ここから社会人として巣立ったことでありましょう。
しかし、はげしい肉体労働を伴う農作業の連続は、二祖のお体に大きな負担となっていたことも事実で、ご発病の原因にもなりました。
不敬事件を見事に解決
戦時中、国家を挙げてすべての思想が軍国主義に統一されていたころ、各宗教団体も、皇道思想と一体になるよう、宗派によって教義を修正したり、ご遺文といえども内容によっては削除、あるいは変更することを強制されたことがありました。
当会においてもその例に洩れず、当時刊行されていた獅子吼世界(獅子吼会布教誌であり大正六年四月に第一号が発刊され、我が国初の月間仏教誌です)に、これに該当する記事があることを特高警察当局から指摘してきました。
最初に記事の執筆担当者が呼び出され、次には編集長が呼び出され、主旨の説明につとめましたが、何としても許して貰えません。そのうち、すでに配布した全雑誌を回収せねばならぬという大事態まで進みました。
この事態を憂慮された二祖は、私が行って係官を納得させてくる、と出向かれ、落着いた口調で、取調官に対し、次のように話されたのでした。
「およそ仏教というものは、相対から絶対へと行くのが高級な教えであります。たとえば、貴官の仰るように、天皇陛下を神様にしますと、これは宗教になってしまいます。宗教になれば、そこには当然批判が伴ってきます。批判のないものはにせものです。批判があればこそ、これを相対するということでしょう。これをつきつめていって、世間の道理に合っていけば、始めて相対的なものから絶対になっていくのですから、いきなり天皇を神様にするのは、とんでもない間違いで、不敬も甚だしいではありませんか。」
ついに取調官も納得してか、以後呼出しはなく、一年後には不起訴処分となりました。
無理が重なり病床に
生来あまりご丈夫ではないお体に、無理が重ったためか、昭和二十三年末ごろから病床に臥されるようになりました。二度、三度重態に陥いりましたが、ご法のご加護、会祖聖人の熱烈なお助行、ご家族の懸命な看護等によって、その都度、危急を脱せられました。
また、休んでおられても、会祖聖人が見えられると会務の相談に、さらには宗門の責任役員である社会部長という重責も立派に果たされておられたのであります。
二祖がよく申されたお言葉に、“だるまは面壁九年の修行をしたが、わたくしは天井をにらんで九年、その中で、人間は生きねばならぬということを悟った”と申されましたが、この九年、実は二祖は誰もが味わえないご修行をなされたのでした。
そして常に座右の銘のようにされ、またご信者方にも法門された「能忍」の二字は、この永い病床生活から得られた、尊い宝物であったのでありましょう。
二祖会長ご就任
昭和三十二年七月二十八日、会祖聖人はご遷化され、この日から二代会長にご就任、僧名を現楠から日eと改められました。
まる八年の 病気生活に終止符をうち、見事起死回生されたとはいうものの、まだ立居振舞にも人の手をかりねばならない程のお体でした。
しかし、これがご法のご加護顕かと申すのでしょう。医師も驚嘆するほど、日毎に健康な身体に戻られ、ご法座に上られる二祖のお姿を、弟子信者共々、歓喜の涙を流して喜びあったのです。
二代目継承にあたって二祖には、いますぐにでも取りかからなくてはならないことが山積しておりました。中でも、会祖聖人がご遺言としてその成就を託されていた、大本山鷲山寺本堂の再建、さらに横浜教会の再建等々、多くの事業が目白押しに待っているという、きびしいご就任でした。
宗門の要職を歴任
獅子吼会の法燈を継承されて間もない九月二日、法華宗大本山鷲山寺第九十二世貫首として就任されました。この時は実に四十五歳というお若さでした。次いで、昭和三十四年元旦には、法華宗管長に推され、大僧正となられました。師父日現聖人のあとを継がれてより、ほんの僅かの間に、父子二代、続いて大本山の貫首の招請、そして管長と、要職につかれ、とくに異例の若さでの大僧正へのご昇叙は、宗門史上はじめてといわれます。また、並々ならぬ仏縁をもって、この世に出られたという証左でありましょう。
両母の菩提寺を建立
二祖は生母、義母のご孝養には特に心を配られ、朝夕懇ろに回向されていましたが、昭和三十六年、北海道札幌市に、義母の大悟院妙感日玉善法尼の菩提寺、妙感院を建立されました。
次いで翌々三十八年には、生母である本寂院常住日解大姉の菩提寺として、京都北山の地に常住院を建立され、北海道及び関西地区のご弘通の拠点とされました。
この常住院において、二祖が後年、如説修行鈔釈意という宗教学書を出されましたが、そのなかに
「とき、たまたま今年七月二十八日は、恩師の第十回目の御忌を迎えることになりましたが、浅学未熟の私には、恩師に供うべき、何らの追孝もかないませんので、せめてこの機会に、高祖がご留魂の如説修行鈔を色心に講じて、これを恩師、並びに慈母の霊前に供え奉り、併せて、会員各位の要望に副いたいと、今春四月、慈母の菩提寺である、京都北山の常住院に詣でて、母の冥助を祈りながら、筆をとることにいたしました。生母は、私が十八才で、まだ中学校の時代にみまかりましたので、子として何らの孝養もつくせず、せめて慈母の菩提を弔いたいと、去る昭和三十八年六月に京都に一寺を建立して、母の法名にちなんで、常住院と名づけましたが、いまではここが、私にとって、ただひとつのなつかしい、母のふところでございます。」と、その心境を述べておられます。
後日、なぜ、妙感院の方を先にお建てになったのかとお伺いしますと、二祖は、「それはね、義理というものは大事なんだよ。今の人たちはとかく義理とか人情を、古くさいものの代表のようにいうけれど、義理を立てる、これを先にするのが人間の道というものです」と申されましたが、心の中にこもる温かさ、お慈悲の深さを感じさせて頂くのです。
後年、三世上人の宗門に対する功績により、本寂院法勲常住日解善大姉との追贈を賜わり、常住院のご肖像の前に供えられております。
晩年まで続いた獅子吼主義講座
信者たちはよく、二祖を囲んでご指南をお伺いする集いがありましたが、それがだんだんと広がり、ついには獅子吼主義講座を設けられるようになりました。
昭和四十五年十月に始まり、延々二十九回、その度毎に遠路から聴講に見える者も多くなりました。二祖もお体の具合が悪いのを押して、丁寧に、判り易く、そしてユーモアを交えての二時間に及ぶ講義が続きました。
時には大幅に時間を越えることもあり、会場の雰囲気は、和やかなものでした。もう数回で終るところでしたが、お体のご不調がとみに増し、残念ながら未完のまま閉講となりました。
受講された人々には、いつまでも記憶に残るご講義の内容は、後日、一冊の本として刊行される機が待たれます。
命がけで会祖第十七回忌ご法要をつとめる
昭和四十八年七月二十八日、会祖聖人の第十七回忌が新宿体育館にて盛大の裡にとり行われました。
例年通り酷暑の中での大法会であり、冷房の設備もなく、そのなりゆきに関係者一同、一抹の不安もありましたが、誰も暑さを感じた人はありませんでした。
と申すのも、この日、四大本山ご貫首をはじめ、宗門の代表者多数がご参列のほか、全国各地からの会員数千の参詣の中、近年稀な、法要を営まれた二祖は、この頃からお体のご不調が目立ち、この日、命がけのご出座のご様子が、参詣者にもひしひしと伝わり、剰え「今日は会祖の年回法要ではあるが、同時に私の葬儀をさせて頂いた」との二祖のお言葉に、暑さも吹飛ぶほど、人々に深い衝撃を与えました。
このお言葉は、そのままのご覚悟を述べられていたものであり、翌年には遷化を迎えたのでした。
銅像の建立と不動寺再建
二祖は、会祖遷化直後、聖人の胸像をすぐ制作し安置されておりましたが。十七回忌記念事業として、等身大の銅像を製作され、昭和四十八年盛夏、年忌法要のあと、一段と暑さの厳しい時に、除幕式が挙行されました。
このほか同じく記念事業として、会祖聖人が得度後、はじめて住職となられた不動寺を再建され、同じ日に落慶法要が営まれました。
思えば二祖にとっては、会祖聖人に対する最後のご奉公をこの年に選ばれたものと思いますが、炎天下ご不快の中でのご親修という行事には参詣者一同、身が引締まったのであります。
会祖聖人の論鈔へ情熱を傾けられる
二祖は、ご自身の著述については、沢山の草稿をご準備になっていましたが、その前に、会祖聖人のご一代について、取りまとめたいと念願され、関係者とその段取りを進めておられました。
そこで会祖聖人に関わる出版の第一弾として、会祖聖人ご一代にお書きになられた論文集の整理に着手され、自ら校閲される日々を送られていましたが、ついに四十八年十月、国立医療センターにご入院。その間にあっても、枕辺に編集者を招き、克明に指示を与え、論鈔の完成に努められました。しかし、残念なことにご生前中に間に合わすことが出来ず、遷化後、五七日忌のご霊前にお供えして、三世正信上人がご報告になりました。
なお会祖聖人の伝記については、後事を三世上人(日正上人)に託され、ご遺志に添って昭和五十二年完成を見たのであります。
ご遷化
昭和四十九年六月十四日、前日からのご危篤の状態にあった二祖は、この日昼すぎから容態は少しずつ重くなられ、親族、弟子、主な信者等が次々と病院にかけつけました。
二祖は、身近な人一人一人面接、握手を交わし、そのうちに意識ももうろうとされる中、お看経の調子をとられるような手振りを示され、一同はお題目の唱和にと移りました。それは日頃のお講席にあっての様子と、全く変らないものでした。
しかし、午後四時五十分、御年六十三才を一期として、安祥として寂光の本土へ旅立たれたのでありますが、そのお顔のおつやといい、体全体からさん然と光を放つかのような、厳かな中にも、にこやかな笑みをたたえ、今にも話かけられるようなお姿でした。
かくて法燈継承されて十七年間、偉大な会祖聖人の大業を立派に守り、かつ、これを広く宣べられ、獅子吼会磐石の基礎を固められたのであります。
三世正信上人(のちの日正猊下)は、昭和二十九年十一月十三日、祖父である会祖日現聖人の下に出家得度されました。
僧名は、出生時に撰名された"正信"そのままであります。
上人は早稲田大学法学部を卒業後、法華宗興隆学林に学び、当時の学監、株橋先生について、行学二道を修められました。
昭和四十六年、横浜教会担任となられてからは、同地区内ご信者の指導教化に専念されました。その後、関西支部担任として京都常住院に滞在、同地方布教の傍ら、後進の指導に当っておられました。
その間、とくに青年層の充実に意を用いられ、横浜青年団の新発足を手始めに、各地方の青年を結集、今日の盛んな団活動を見るに至ったのであります。
昭和四十九年に入り、二祖聖人のご病気という事態もあって本部に戻られ、副導師のお立場で、聖人の布教を扶けておられましたが、六月十四日、聖人ご遷化に伴い、即日、三世会長として就任されました。時に、若冠、三十四才であります。
上人は、両祖聖人の教えをそのままに継承、発展されると共に、また一面、新しい時代に即しての布教方法を積極的に推進しておられます。
中でも、東京都内ご信者の従来の縦のつながりによる部組織を再編成して、地域別による新部の再編成へと大改革を断行されました。
また、千葉県茂原における獅子吼霊園の開設、北関東支部の新設等々、数多くあります。
平成7年4月には、会祖日現聖人が昭和六年に建立した昭和大本堂を三世上人が六十三年ぶりに建て替え平成の大本堂が落成。そして、平成13年4月28日大本山鷲山寺(じゅせんじ)の門末一同の推薦により、第九十九世御貫首に就任され僧名を相改め「日正(にっしょう)」と公称されました。
僧俗一体の教えを基として、法華宗においても新たな第一歩を踏み出されたのであります。
■佛教の本流を汲む獅子吼会
私たちが、日頃信行させて頂いている大日本獅子吼会は、日蓮宗ではなく、法華宗(本門流)であることを先ず知っていて頂きたいのです。
ところが、この法華宗は多くの人々には、釈尊の説かれた一代の仏教の中から派生した一宗派であると考えられているようです。それは天台、真言、禅、浄土真宗等の各宗と同じように、それぞれの人々の意見や考えに応じて立てられた宗派であると思われていますが、これは大へんな間違いであります。
実は、仏教の根本をとらえ、法華宗が立てられたといってよろしいのです。そして唯一人の釈尊によって説かれた教えは、いろいろの経典があるにしても、仏教は必ず一仏教、一宗旨でなければなりません。
どうしてそのようなことになったのかといいますと、それは人々が釈尊のご真意をとり損なったことにもよるといえます。ここで、釈尊ご一代の説法をのべますと、概略次のようになります。
| 一、三七日間 | 華厳経 | 権教(方便の教) |
| 二、十二年間 | 阿含経 | |
| 三、十六年間 | 方等経 | |
| 四、十四年間 | 般若経 | |
| 五、八年間 | 法華経 | 実教(真実の教) |
このように、相手の衆生の能力に合わせて、先ず方便の教えを説かれ、後に真実の教えである法華経をお説きになったのです。このことを仏陀釈尊は、無量義経に、「性欲不同ナレバ種々ニ法ヲ説ク、種々ニ法ヲ説クコトハ方便力ヲ以テナリ。四十余年(権教を説かれた年代)ニモ未ダ真実ヲ顕ハサズ」と説かれてあります。
このように真実でない教え、経典があるということは、仏教を修行する私たちにとっては非常に迷惑であり、妨げとなるものであって、故に教主釈尊は、法華経方便品に「正直ニ方便ヲ捨テ、但無上道ヲ説ク、菩薩是ヲ聞キテ疑網已ニ除ク」と説かれ、自ら四十余年間説かれた権教の教えを一度真実の教えが説かれたからには、無用のものとして除かれ、真実の教えは法華経以外にないと説き示されたのであります。次に本仏の仏様についてふれることにします。
■久遠実成の佛
さて、釈尊は、インドにお生まれになった仏様で、十九才で出家、三十才で仏となられ、以後数多くのお経を説かれたお方であると世界中の人々に知られ、私たちでさえもそう思っておりました。もちろん、法華経以前の経典には、全てこのように説かれてあります。
ところが法華経に至って、寿量品には、「然ルニ善男子、我、実ニ成仏シテヨリ已来、無量無辺百千万億、那由陀劫ナリ」お前たちよ、実は私は仏になってからというもの、みなが想像もつかない程の、遠い歳月を経ているのだ。と自ら述べられたもので、これが有名な"五百塵点劫"の久遠成道ということであります。これは、とてもとても人間の頭では考えることのできない長い長い歳月ということです。
それでは、この五百塵点劫という久遠の昔に成道された釈尊と、インドに実際に誕生せられた釈尊とは一体どのような関係にあるのでしょうか。これは大へん重要なことなのです。このことについて釈尊は、「(五百塵点、久遠成道して)是ヨリ已来、常ニ此ノ娑婆世界ニ在リテ、説法教化ス。亦、余処ノ百千万億、那由陀阿僧祇国ニ於イテ、衆生ヲ導利ス。諸ノ善男子、是の中間ニ於テ、我、燃灯仏等ト説き、又復、ソレ涅槃ニ入ルト言ヒキ。是ノ如キハ、昔、方便ヲ以ッテ分別セシナリ。・・・応ニ度スベキ所ニ随ヒテ、処々ニ自ラ、名字ノ不同、年紀ノ大小ヲ説キ、亦復、現ジテ当ニ涅槃ニ入ルベシト言ヒ・・・。」このようにお説きになっています。これを要約しますと、釈尊は五百塵点の昔に成道されてから、今日法華経を説くまでの長い間、この娑婆世界(私たちの現実の世界)はもちろん、他のあらゆる世界(極楽世界・・・等)で説法して衆生を導いてきた。また人々の性格、国々に応じて、あらゆる姿の仏となって、各々異った出生、修行、説法の姿を現わし、人々を導いてきたのである。ある時は阿弥陀如来となって極楽世界に導き、ある時は大日如来を使わし、密厳世界を説き、・・・インドに生まれた釈尊も、また久遠成道の仏が我々を導くために、仮に方便の力をもって姿を現わしたということです。
すなわち、久遠の本仏が本当の仏で、インドに生まれ、いろいろのお経を説かれた釈尊は、仮の方便の仏ということになるわけです。
そこで、この五百塵点の久遠の仏とは、全ての経文に説かれている、あらゆる仏の根本の仏、すなわち「本仏」であります。そして、この仏は久遠本仏とお呼びし、他のあらゆる仏様は、全て本仏が仮に姿を現わした「迹仏」というのです。
■本地本門法華経-本門八品
法華経の本門と迹門
仏様は最後の八年間に、法華経をお説きになられましたが、法華経には序品第一から普賢菩薩勧発品第二十八品まであります。これを半分に分け、前半の十四品を迹門、後半の十四品を本門と呼んでおります。そして迹門は、教主釈尊がインドに生まれ、十九で出家し、八十才で入滅された歴史上の仏、すなわち迹仏としての立場で説法している部分です。迹仏の説法ですから、之れを迹門といいます。
次に本門は、久遠実成の本仏の立場を中心として説法している部分ですから、本門といいます。ここには久遠の生命を持った本仏の修行、教化、寿命及び、本仏が久遠の昔に覚られた真理などが、説き示されています。迹門の中心は方便品であり、本門の中心は、一応は寿量品であります。迹門の中心である方便品においては、今まで成仏できないとされていた声聞、縁覚の位の人々も成仏できるとはじめて明され、ここに、全ての人々が成仏できることになったのであります。しかし、迹門では、あくまでも理屈の上であって、実際の成仏は、本門に至らねばできません。
したがって迹門では、教えの真髄である一念三千の法門を説かれたところですが、あくまでも理の上ということで、理の一念三千といいます。
次に、本門の中心、寿量品において、教主釈尊は、今まで秘密にして誰にも語らなかった重大な事実を発表されたのであります。それは、前段でものべました五百塵点劫、久遠実成ということであります。釈尊は、実をいうと、五百塵点という遠い昔に、すでにお題目を唱え、修行して成仏されたところの、久遠実成の本仏なのである、ということであります。この寿量品には、事の一念三千といって、本仏が私たち凡夫に具えてくださった、仏になるための種子が説き明されているのです。
■本地本門法華経
天台大師は、法華経の中心は、迹門に説かれる方便品であるとされました。しかし、日蓮大聖人はその上に一応、法華経の中心は寿量品であるとされ、更にまたその上に、本門八品を以て、法華経の正意とするとされたのであります。
ここで、大事なことですから本門八品について一言ふれておきますと、久遠の本仏は、この八品の部分においてのみ、その真実のお姿を現わされ、そして、そのお立場で教えを説かれたのです。さらにまた、この八品のところにおいてのみ、教えをうけるお弟子方も、久遠以来のお弟子である上行菩薩を筆頭とする諸菩薩が現われたのです。
そして、ここにおいて始めて、末法の私たちのために、仏が上行菩薩に南無妙法蓮華経のお題目を付嘱(授ける)されたところなのです。このことを指して、高祖大聖人は、「この本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字においては・・・但八品に限る」とおのべになられました。
したがって、本門八品とは、涌出品第十五から、嘱累品第二十二までの、単なる八品ではありません。この八品には、法華経二十八品を含めた、釈尊一代の経教のすべてが収められていると説き示されたのであります。
これをさして、私たちは本地本門法華経と申しております。
■末法正意の法華経
久遠の当初に、私たちに下種されている南無妙法蓮華経の本来の働きは、末法の一切衆生に仏種を下すことを正意といたします。
仏の滅後、最初の一千年を正法時代、次の一千年を像法時代、そのあとを末法といい、末法は万年までも続くといわれます。仏の亡くなられた後は、世が移るに従って人々の機根が衰え、心の状態が悪化し、仏の教えを素直に受け入れ、実行する人が少なくなってきます。そして末法ともなりますと、仏の教えはすっかり影をひそめ、反対に邪法邪師がはびこり、尊重されるという時代になるのです。
末法は闘諍堅固の時といって、皆、三毒強盛の凡夫なのです。貪り、いかり、愚痴、うぬぼれ、これらを原因としていろいろの悪い心がおき、その上、たいして偉くもないのに、自分が偉いのだと慢心の心をおこす人々が多くなり、ついには正しいご法をもそしり、けなすことになるのです。
現在が丁度、こうした時代で、まさしく不安と絶望の時代といっても過言ではありません。しかし本門の法華経は、このような時代こそ、本当の姿を現わし、また三毒強盛の凡夫を救済することを正意とするのです。
法華経が末法のためにあることは、上行菩薩に付嘱せられ、その上行菩薩が末法に出現するという仏の予言と、その予言の一つ一つを実証された、高祖日蓮大聖人のご出現によって、確証されたのであります。
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獅子吼会の信仰の特色
■一、喜びに思いを変える■■■■■■■■■■■■■■■■■
私たちは誰しも幸福を希い、自分なりに精一杯の努力をするのですが、なかなか自分の意思通りの人生は至難のようであります。いくら努力しても酬われず、そればかりか、時として思わぬ障害に突き当たり、ある時は挫折し、ある時は絶望の淵に立たされることも多いのです。
しかし、その時にこそ、何くそ負けてなるものかと、勇気を揮い起こし、歯をくいしばってしゃにむに頑張って進む、これが大方の人生であろうと思います。
そこでよくよく考えてみますと、私共の周りには、不幸になる材料ばかりがあるかと思うと、決してそうではないのです。心の受けとめ方、捉えようによっては、すべて幸福の材料にならぬものは何一つとしてないのでありまして、それがたとえ病気であれ、災難であっても、心の働き方如何では、立派な幸せの材料として捉えることができるのです。
たとえば思わぬ苦難に遭ったとします。これをただ単に苦しみとしてそのまま捉えるのであれば並の人でしょう。しかし一方、考えてみれば人生に苦はつきもの、これをのり越えたところに必ず幸せがあるのだ。今の苦しみは、これは諸天から自分の信心前を試されているのだ、もしや、仏の愛のむちであるかも知れない、と受けとめて、これに打ち克ち、乗り越えようとするならば、災いも病気もみな、幸せの材料と転ずるでしょう。
言葉でいうことはごく簡単ですが、いざ実行となると実にむずかしいことであります。しかし、私たちは正しい教えに従ってご修行する身の上です。一歩でも二歩でもこの心境にまで盛り上げていかねばなりません。それも歯をくいしばって力んで思いをかえるのでなく、ごく平らかな気持でさせて頂けるよう、常日頃、強固な信心前を養うことが大切です。ここまで来ますと、どんなことにも動ぜずに、思いを喜びに変えさせて頂けますし、難有って有難いと心から喜べるようになるのです。大聖人も、「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて、南無妙法蓮華経とうち唱えいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや」と仰せになっております。会員同志がお互いに交わす“有難うございます”には、その精神がこめられています。これが当会の教えの根本をなしているといえましょう。
■二、反省、感謝、努力■■■■■■■■■■■■■■■■■■
信仰のあり方で、先ず第一に挙げられることは、反省ということです。仏教では“懺悔”という言葉を用いますが、人間である以上、反省心がなくてはなりません。
反省心のない者は、いかに外見を立派に装って見ても、人間としての資格はなく、犬猫禽獣と何等変りないのです。立派な人格の持主といわれる人たちは、反省に反省を重ね、ついには天地に恥じぬ心境にまで達するといわれます。
私たちがよく体験することですが、たとえば仕事に不都合を来した時とか、あるいは受験などで失敗したことを、ただ自分の不運として嘆くのではなく、一体、これはどうしてこうなったのか、どこに原因があるのかを突きつめてみますと、必ず何かしら思い当たることがあるものです。そうだとしたならば、失敗の原因を他に転嫁するようなこともなく、この次は、二度と同じ過ちをせぬようにと心がけ、最善の努力をする。これが反省ではないでしょうか。
そして、さらに反省に徹しますと、何ごとにも歓喜の気持が湧き、あらゆるものに対して感謝の念が生じてきます。そして今度こそはよくやろうという、精進(努力)の意欲が盛り上り、自ら克己心、向上心が培われてくるのです。
もとより、懺悔(反省)感謝(喜び)精進(努力)というものは個々別々に働き出すものでなく、常に渾然一体となって、知らず知らずに心の奥底から湧き上がるのです。これが正しい信仰の姿であり、信仰者の根本的な心構えなのであります。
■三、不軽主義の精神■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
私たちは、常々“有難うございます”という挨拶を交わしますが、これは、法華経常不軽菩薩品に説かれている、“貴方の心の中には、尊い仏がいらっしゃる。ですから貴方は仏道修行をすることによって、必ず仏になれるのです。”との不軽菩薩の合掌礼拝の精神を継承するものでもあります。
不軽とは文字通り、軽しめずという意味で、どんな卑しい人に対しても軽しめない。また軽しめぬばかりか、敬いの心をもってすべての人々に接し、み教えを説き示して、共に正しく仏道修行の道に入らしめることであります。これこそ、本当の人命尊重、人格尊重といえるのではないでしょうか。
不軽菩薩は、あらゆる苦難に遭われたお方でしたが、決してひるむ心なく、益々勇気を振い起こし、難を避けながらも尚且つ、合掌礼拝の修行を続けられたのです。
私ども、法華経のご修行をする者は、あらゆる災難を覚悟せねばなりませんし、如何に大難が競い起こるとも、喜び勇んで難を忍び、弘通広宣に専念させて頂きます、という心の表われが、“有難うございます”の短い挨拶の言葉の中に含まれているのであります。
「信と随喜とは心同じなり、随喜するは信心なり、信心するは随喜なり。」
とも仰せられています。
■四、知恩報恩の信行■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
人間として生まれたからには、知恩報恩の念がなくてはなりません。私たちがこうして生活を営んでいることは、何事であれ、あらゆる恩恵に浴しているからです。その恩を知って、恩に報いることが人の人たる道であり、人の道として最高の価値ある行いといえましょう。
仏教においては、天地の恩はもとより、国家の恩、一切衆生、つまり世の中の恩、自分の身体や生命を与えてくれた父母の恩(養育の恩)を忘れてはならないと強調され、さらに未来成仏のご縁を結ぶに至った三宝の恩に対して、報恩の誠をつくすよう、深く訓されています。
今時の人々にこのようなことを申しましても、今日の科学万能の時代に、そんな古めかしいことを説くのは時代錯誤も甚だしい、と反発する人も多いようですが、このことは、天地の一貫した不動の真理であり、真理というものは古今東西を通じて、いささかも変わるものではないのです。
当会のご信者は、尊い信行の上から、すでに四恩を知るだけでなく、その報恩行にもっぱら心を砕いております。すなわち、恩を知って恩を報ずるということは、湧き上がる感謝の気持の表現によって示されるものであり、それが「有難うございます」の言葉となって出てきます。この心を忘れずに、報恩感謝の日々を過しているのが当会のご信者であります。
■五、因縁を悟るご修行■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「過去の因を知らんと欲すれば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、其の現在の因を見よ。」
高祖大聖人は、開目鈔の中にこのご文を示されておられますが、私たちの今日の有様、現在の思考や行動を見れば、過去の姿も、また未来の姿もはっきり知ることができる、と教示されています。
人間はみな生まれながらにして異なり、誰一人として同じ顔形の者はおりません。生まれながらにして祝福される子供もいれば、逆に生まれながらに両親と別れ、苦労を強いられる人……世はさまざまであります。ここで、私共がこれを如何に受け止めるかが、極めて大事なことになってきます。
私たちの教えでは、善悪いずれの結果にせよ、現実の姿があるからには、必ずそれなりの原因のあること、そして、自分自身にその責任のあることを教えられています。それならば、今度はその結果をよい方に変えていくことに思いを向けなければなりません。つまり、よい縁にふれさせるということが大事なのです。因と果は、いろいろな縁にふれて、如何ようにも変ってくるということです。
たとえば麦一粒の種をまくとします。その後、肥料や水、それに太陽の熱などのあらゆる縁に助けられて実を結ぶのですが、もし、水が充分届かなかったり、太陽の光が当たらなかったとしたら、同じ種をまいても、その結果、同じ収穫は得られないでしょう。それなのに、肥料の善し悪し、水量の適不適を棚に上げて、同じ種でありながら、同じ果を生まないことに不足をいい、因果の法則に疑問ありというなどは、愚も甚だしいと言わねばなりません。
因というものは縁の助けに応じて、如何ようにでも変化していくことを良く理解して頂くと同時に、私たちがよい境遇にあっても、決してうぬぼれたり、油断することなく、前生に良い功徳を積ませて頂いたお陰、周囲の人々の援助の賜ものと謙虚に受けとめ、感謝の心を忘れることなく、さらに努力しようとの気持を忘れてはなりません。また反対に、逆境にあおうとも、これが仏から与えられた試練であり、過去世の罪障も消えることになる、と一そう努力し、決して人を恨み世をはかなんで、不平不満で暮らすようであってはならないのです。これによって、悪い因縁も良い因縁へ代えさせて頂けるのです。私たちのご修行は、お題目の口唱信行により、因縁をさとり、因縁をよりよい方向へと変えさせて頂くことができるご信仰なのです。
■六、給仕奉公の実践■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「法華経を我が得しことは薪こり、菜つみ水汲み仕えてぞ得し」
日蓮大聖人は身延山御書でお詠みになっておられますように、大聖人ご自身自らが、お身体を駆使されて、仏に給仕せられた尊いご様子が想い起こされるのであります。
ことに師孝第一と称せられた日朗聖人、その門流の正統を汲むと自負させて頂く私たちは朗門の三則である、一に給仕、二に修行、三に学問、ということを主眼として実践しています。
とかく法華経の修行といいますと、世間では経文の読誦や解釈、あるいは教義に亘っての細かい研究など、学問的考察が大事なことのように思っていますが、実はそれは二の次の修行であって、最善とはいえないのです。
そしてまた、菩薩の行の中に布施行、その中の一つに身施というのが、とりも直さず給仕奉公であり、我が身を痛めて仏に供養し、ご弘通に身を捧げられる師匠に随伴し、給仕することなのであります。また身近にそうしたご奉公が出来ない時には、ご信者方のご参詣に不都合のないよう意を用い、あるいは病人などあれば、自分の暇をさいてお助行に馳せつけたり、総講、部講などの参詣も、みな給仕奉公になります。それも決して他から押しつけられ、あるいは義理や何かで、いやいやするのでなく、心の底から喜びに満ち溢れて実践するという、いわゆる随喜給仕、随喜奉公でなければならないのであります。
■七、自行化他の菩薩行■■■■■■■■■■■■■■■■■■
自行化他ということは、自行利他ともいい、自分を利すると同時に、他をも利する、他をよくして上げるということです。
この両者は一体不離のもので、互いに助け合うのですが、本門法華経の教えになりますと、自行より化他に重点がおかれ、化他即自行となるのです。日扇聖人は、「妙法蓮華経の極意は、人を助けんと行ずれば、我が身も助かるという菩薩行なり。是れ則ち、此経の御本意也」と教示されています。
自己を中心とする人は、他のことなどはどうでもよいという考えの強い人です。しかし、この考えは実に恐ろしいのです。自己中心が高じてきますと、今度は己の欲のためには、手段を選ばぬことになり、多くの場合、社会に大きな害毒を流します。新聞テレビを賑わす昨今の事件は、みなその原因はここにあるのです。
私共は他人を利することを先ず考え、人を善導していくことに心がけねばなりません。“利他”言葉はむずかしいのですが、分り易く言えば、その根底に“思いやり”の精神をもって、実行するということです。
こんな仏教説話があります。
地獄、極楽の世界はいったいどんな処であろうかと、神通力のある者がその世界へ行って見ました。すると、両者は大して変わりはないのです、よくよく見ますと、大きなテーブルがあり、その上に盛沢山のご馳走があるではありませんか。ところがその箸たるや、身の丈ほどもあるのです。地獄の世界の人達は、その食物を自分の口に入れようとして入れられず、人々と争いを起こしています。極楽の世界では、これと反対に、自分のとった食物は、向う側の相手の口に運んで上げているというのです。
両者の違いは、この思いやりの有無による大きな相違であります。私共が人を利したことはみな我が身に返ってくるのです。そして、己れを利する喜びよりも、はるかに大きなものであることに思い至るでありましょう。このことを、“化の功、己に帰す”とも申します。
会祖聖人が常に仰せられた、“徳は本なり、財は末なり”のご金言も、この心に当たるのです。この実践が、真の菩薩行といえましょう。
■八、お助行の実践■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
前項の化他行の中にも含まれるのですが、特に当会では、お助行ということを実行させて頂いております。
このお助行には、正行と助行の別のあることを先ず知らねばなりません。私たちがご信仰に出値い、ご因縁に目ざめ、人としての正しい道を歩むため、教えに基づいて修行するのが正行であり、また、その人のご修行が正しく行われ、全うできるように、側面から援助することを助行というのです。
そこでこのお助行は、世間に見られる加持、祈祷とは根本的に異なるもので、あくまでも、南無妙法蓮華経のお題目を口唱信行し、そのお力を頂くことにあります。
私たちはもとより凡夫の身の上です。したがって時として怠けたり、病気に罹ったり、つまらぬことから罪障を起こして心が動き、信心に動揺をきたすことも出てまいります。そうした時に、本人に代って、その至らぬ心を懺悔し、改良させ、信心増進を祈願し、また、本人にご信仰上の心得違いなどがあれば、慈悲の上から折伏し、心からお題目口唱することによって妙の現証を頂き、正しい信心の道に立返らせることにあります。
会の発足当時、会祖聖人は、一軒一軒病人を探し求め、自らお助行に打込んで教化され、それが人づてに伝わり、また現証を頂いて、ご弘通の道が急速に開けましたが、お助行による現証ご利益は、理外の理、思慮分別の外といわれるほど顕著なものであります。
今日では医療制度も完備され、誰でも容易に医療を受けられるようになりましたが、それとはまた違ったガン等の病気が急速にふえつつある現況です。昔から、病は気からといわれますが、まず健全な身体は心からで、精神の立て直しが大切な要素です。本来、人間には自然治癒力が備わっているといわれます。ところが、安易に医薬に頼ることにより、折角持てる治癒力を減らすばかりか、時には薬による副作用も大いに懸念されます。とにかく、病気に対する心構えとして、先ず心の立て直し、根本的な改良を願ってお助行に励み、我も人も共に喜び合えるご修行をさせて頂くことが大事です。
■九、異体同心を旨とする■■■■■■■■■■■■■■■■■
「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶うことなし」
このご文を挙げるまでもなく、異体異心では何事も成就しないのであります。私どもが時として、わずか指先を傷つけただけでも、身体全体に不快を感じます。一軒の中で、ただの一人でも我を主張して、譲ることがなければ、家内の円満は計ることができません。
社会も国家も、個々の延長であり、拡大したものですから、各々が自己中心の我執を捨てて、和の精神をもって臨むところに、万事は成就するのであります。
会祖聖人は、常に「正しきを養う」と仰せられ、この正の字は、上と下の字が合わさって正となる。そして、上の者が下の立場を思い、下の立場の者が上に立つ人の立場になって、お互いに思いやりするところに、本当の異体同心が計れる、と教示されました。
当会では、身分の上下、老若男女の別なく、また僧俗一体となって、日蓮大聖人の一大ご理想顕現の為、教化ご弘通に励む異体同心の団体であります。
■十、お任せの実行■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「まかせては身に願いとてさらになし よきもあしきも法のまにまに」
ご信仰の根本はお任せにあります。ああして欲しい、こうも叶えて欲しいと願いをもち、たとえ、それが自分の希望通りにならないからといっては愚痴をこぼし、罪障を起こすようでは、それは身に願いとてさらにありで、本当のお任せにはなりません。
このような話があります。ある人がいいました。「仏教でいうお任せとは、どういうことなのですか」僧侶は、その人を木に登らせて命じました。「左手を離してごらんなさい。次に左足を、その次に右手を離しなさい」その人は、「そんなことをしたら落ちてしまう」と叫びました。そこで僧侶が申します。「私が両手両足を離しなさい、といった時に、両手両足が離せるほど徹底して信じ、命をかけても任せきることのできるのを指して、お任せしたということになるのです」と。
ここで、両手両足を離しても、心がしがみついていたならば、本物のお任せにならぬことはいうまでもありません。また、お任せしたからといって、自分自身が何もしないのではなく、結果はともかく、一つの目標に向って、一生懸命に祈願し、努力実行し、そして結果はご法にお任せする、これが肝心なのです。
たとえ、その時は不本意と思える結果に終った場合でも、長い眼で見た時には、あの時の不本意であったことがかえってよかった、お陰様であった、と思い当たることが私たちは意外にあるものです。
このご法を信じ、師匠を信じ、心からお任せできてこそ真の信がおきるのです。本門八品所顕上行所伝のお題目に、身も心もお任せしたならば、不平、不足、愚痴などおころう筈はないのです。本当にお任せしきった心境こそ、現世安穏、後生善処の安住の境地といえるでしょう。
以上、十項目を列挙しましたが、これがすべてではありません。いうならば、会祖聖人、二祖聖人がお遺しになられた数々のご金言と、その実践の足跡がすべて、当会の特色でもあるのです。
“云うは難く、行うは易し”
会祖聖人は世間の人とは全く反対のことを仰せになりましたが、まさにこの通りなのです。一たん、口に出したからには必ず実行する。また実行出来ないことは軽々しく言うべきでない。言うより先に実行する位の心構えを持て、との仰せであり、実際そのように率先実行されました。
また、日ごろ“慈悲と根気と負けん気”をもって、私どもを教導され、この三拍子が揃えば、事として成らぬものはないと仰せられたのです。
私たちは、むずかしい教義教相を覚えて、他宗と論じ合うよりも、信心によって自分の持てる知恵を、仏の知恵と代えさせて頂くことが何より肝要であります。
この信心のあり方も、四つに分けることができるとされ、それは有解有信、有解無信、無解有信、無解無信ですが、解とは学問上からも仏の教えを理解出来る、ということです。しかし、末法の私たちには本当に学問上に理解することは至難と言えましょう。そこで無解有信、むずかしい教義や経文の解釈は知らなくても、仏の教えを素直正直に信じ、教えの肝要である、本門八品所顕上行所伝の南無妙法蓮華経のお題目を口唱信行し、その功徳をわが身に頂き、喜びを人にも伝えずにはおられない、末法今日の三毒強盛の人々を、この正しい仏の教えによって救わずにはおれない、との固い信念で教化折伏行に徹する修行、これが私たちの信仰の特色なのです。
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●一、三宝護持(さんぼうごじ)●●●●●●●●●●●●●●●●●●
三宝護持の意義
一口に言えば、仏・法・僧を護り持つ、ということです。
それには、私たちが日夜に口唱信行し、お講参詣をしてご法門を聴聞し、また、お給仕させて頂くことなどにより、
三宝護持の心を高めていくことになるのです。
世の中にはいろいろの宝があります。人によってさまざまですが、先ず蔵の宝、すなわち、金銭的に価値のある物が挙げられましょう。
またそれよりも、身の宝、これは健康、学問、技量など、私たちが生きていく上に極めて大切なものですが、なんと言っても心の宝、
心を磨き、人徳を身につけることが最高です。そのよりどころとするもの、いいかえれば、三世(過去、現在、未来)にわたってお救い下さるのは、仏、法、僧の三法にまさるものはないのです。
(一)仏宝
申すまでもなく、仏教は釈尊から始まっています。もし、釈迦仏がお出ましにならなければ、私共の今日のご信仰もなかったといえましょう。そして、そのお姿を拝むことのできない今日では、釈尊の出世の本懐とされる”南無妙法蓮華経のご本尊”に対して、日夜、まごころをこめてご給仕申し上げているのです。
(二)法宝
これは、仏がときあらわされた真理をいいます。もちろん、この法宝の中心は、本門八品所顕(ほんもんはっぽんしょけん)、上行所伝本因下種(じょうぎょうしょでんほんにんげしゅ)の南無妙法蓮華経でありますが、これを宝としてあがめる道は、一心に口唱し、人にもその有難さを伝えることであります。
(三)僧宝
この正しいご法を、正しく伝える師がなくては、これまた仏法は弘まりません。また、私共の教団を長い間に亘って守り続けてこられた、先師上人をはじめとして、多くの信心の篤い方々によって今日があるのです。こうした方々を総称して僧といい、そのご恩を更に総称して、僧宝と申すのです。
そこで私達はその報恩として、自分たちが味あわせて頂いた幸せ、悦びを世の多くの方々に分かち合うため、お教化(きょうけ)という形を持って、共にご法をお護りするのです。すなわち、自行化他(じぎょうけた)をすることによって、仏法は末広がりに広がって、仏のご本意に添うということになります。
私達はこの三宝のおかげで、今日こうして値い難い大法にお出値いさせて頂いているのですから、日夜怠らず口唱信行に励み、給仕ご奉公に誠心をつくし、「今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願も成就すべきなり」という、み教えに添い奉るよう、ご修行を積みたいものです。