![]()
「信仰」ということについて、人はさまざまなとらえ方をしております。
全然関心がない。信仰しなくても生活にこと欠かない。あるいは、信仰は心の弱い人のすることであるとか、また信仰するほどの悪いことはしていないなど、まるで、心の中に疚しいことや、ひけ目をもった者が信仰するものだというような、考え方をしている人もいます。
また、信仰なんか老いさき短い人のすることで、若い者のすることではない、との考えを持っている人もおります。これらはいずれも、信仰について正しい認識をもっていない人達の考え方ですが、はたして、信仰しなくても生活できる、生きていける、といい切れるものでしょうか。
釈尊は教えの中で、人間の慢心、奢りについて説かれました。奢りというと、私達はつい学識の豊かなことや、金銭物質に富めることなどのように思い勝ちですが、そうではなく、ひとしく人間の心に深く根ざし、誰しもが持ち合わせる奢りがあるというのです。それは一体、何なのでしょうか。
第一には、若さに対する奢り。第二は、健康であることの奢り。そして、第三は生命に対する奢りです。第一の奢りは、老いを忘れていることにつながります。第二は、病を忘れていること。そして第三は,生きていることが当り前として、死を忘れていることにつながるのです。
こうした若さ、健康、生命への奢りは「生老病死」という、人間であれば誰でも必ず直面しなければならぬ大事な問題に、あえて目をふさいで毎日を生きているといえるでしょう。
信仰は心の弱い人のするもの、という意見も、これと同じだと思います。自分は強い人間だと思っているからでしょうが、これも慢心ではないかと思います。
また、老いさき短くなった年寄りのすること、というのも誤った考えであることが、うなずけるのではないでしょうか。「老いたるも若きも定めなき習いなり」との大聖人のお言葉通り、誰が明日の生命を保証してくれるでしょう。明日知れぬ身ともなれば、その日その日を大事にし、よりよい生きざまの積み重ねが、その人を幸せに導き、日々をおろそかに過ごすことが、不幸な人生につながる、といってもよろしいと思います。
また、うぬぼれ、奢りについて、別な面から考えてみましょう。私たちの人生で、自分はまっとうな道を歩んでいると思っているかも知れません。しかし、それも一つの奢りといえるのではないでしょうか。それというのも、私たちは無意識のうちに、或いは意識する場合も含めて、人を泣かせたり、時として、人を陥し入れたりすることもあるのです。
すなわち、知らず知らずのうちに、大なり小なりの罪を犯しているのです。いや自分だけはそんなことをしていない筈だと仰るでしょう。しかし誰しも今生だけの生命ではありません。人生の一日を考えてみても、今日だけが独自に存在するのでなく、昨日あっての今日、明日あっての今日であるのはいうまでもないこと。それと同様、人生にも過去世があり、未来世があっての現世なのです。従って過去世で、罪業を犯したことがないと、誰が断言できるでしょうか。
生まれながら、何事も順調な人生を送っている人も、決してそれに奢ってはなりません。これも、過去世に積んだ功徳と、今日に至る努力精進の賜物だと謙虚にうけとめ、また多くの人々のお蔭と深く感謝し、更に善事を積むことが大切です。これとは反対に、生まれながらに苦労を強いられ、逆境に立たされる人生も、やはりそれなりのいわれがあるのです。従っていたずらに自己の不遇を嘆き、その原因を他に転嫁せず、己自身の今日までの積み重ね、また、過去世、前世の所業による報いと素直にうけとめ、謙虚な心で自らを悟り、その定業を能く転じていくための努力、ご修行が必要となってきます。
つまり厳しい苦難があったればこそ、他の人よりも努力する人生ができたのではないか、また、逆境に打ち克った時の喜びは、順調に世を渡る人よりも、素晴らしい人生になったのではないかと、思いを喜びにかえていけるのは、ご信仰の力によるものではないでしょうか。
![]()
「地獄と仏とは、いづれの所に候ぞと尋ね候えば、或は地の下と申す経文あり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細に尋ね候えば、我等が五尺の身の内に候と見えて候」
この大聖人のみ教えのように、私たちの心の中には、下は地獄界より、上は仏界に至るまで、種々様々な働きがあり、わずか一瞬の間にも、めまぐるしく移り変わるといわれます。各々人間の心の中には他人の善い行いを見て共に喜ぶのではなく、その行いを羨み、嫉むような醜い心もあれば、その反面、人の不幸を見て、できるものなら、その責め苦を代ってあげたいと、心から思う慈悲の心も持っています。即ち、餓鬼や畜生の心がでたかと思うと、菩薩、仏のような心も持ち合わせています。
教えには、人間には本来、貪り、瞋り、愚痴といった、いわゆる煩悩が多くを占めるといわれ、なかなかこれら醜い心を制御することができないとされているのです。
しかし、できないからといって放っておくのではなく、正しい教えを心の定規として、常にわが行いを反省し、さらに修正し、時には慢心する心を戒め、悲嘆のどん底にある時は、勇気を奮いおこし、心の奥底にある仏心を引き出し、そして磨き、ついには、人間としての最高の人格を作り上げ、内にも外にも、その人格が満ち溢れるようにしていくことが、ご信仰の大事な要素といえるのであります。
![]()
振返ってみますと、戦後の私たちは、経済的な面での苦労を、いやというほど体験してきました。そして今日に至る三十年間、努力に努力を重ね、高度経済成長という驚異的発展をとげ、文明の進歩、科学の発達に誰しもが目を見はり、物の豊かさこそが人間に幸福をもたらす最大の要因と信じ、これを追い求めてきたのです。
しかし現実には、進歩に対する大きな歪みというものを思い知らされました。人々には貪りの心が旺盛となり、喜びの心は薄れ、自分中心の貪りをむきだしにしてしまったといっても過言ではありません。ようやく今日に至って幸せは物ではない、真の生き甲斐とは我々の心の中にあるではないか、と遅まきながらも気づき、ではどうしたらよいか、何を求めていったらよいかと暗中模索しているのが、今日の姿ではないかと思います。

高祖日蓮大聖人は、「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財よりも心の財第一なり」
と仰せになっています。蔵の財、いうならば金品、物質などのことです。私たち人間は日々生きていくのですから、その衣食住は一日として欠かせません。従って、金品などは大切な財物です。しかしその価値はあくまでも、絶対的なものではありません。それに比べれば身の財、すなわち、私たちの健康とか学識、技量などの方がすぐれております。これらはその人自身の幸福を招き、人のためにも貢献することができるからです。しかし、これとても如何に使用するかが問題で、ただ自分の幸福のみを目的とするもので、他の人のために用いられなければ、財の持ちぐされとなりましょうし、また、誤った方向にむけられた時には、大きな害毒を及ぼすことにもなりかねません。そこで、心の財こそ最もすぐれている、第一なり。と仰せられたのであります。
私たちは、このように蔵の財、身の財を否定するものではありません。強いていえば、幸福のための外的要因です。大事なことは、外から来る幸、不幸の考え方は捨て去って、内から見出す、内面から作りだす努力をせねばならないのです。さらに言葉を代えていうならば、私たちは多くの物によって生かされ、幸せを得ていることは事実ですが、要は、その物が幸不幸を左右するものではなく、私たち自身が物や、どのような事柄からも幸せを見いだす心をもつ、これがあって始めて、真の豊かさが生まれてくるといえるのであります。
これまで述べてきましたように、人間は如何に心が大切であるか、物に左右されない心をもって、真の豊かさを作りだすことの大事さをお判り頂けたことと思います。しかし頭の中で理解するだけではまだ駄目なのです。
![]()
仏教では、智慧を磨くことに重きをおき、これにも三つの区別が立てられています。すなわち、第一には聞慧です。私たちが目や耳を通じて学び得た智慧のこと。第二は思慧で、これら学び得たものを、もう一度自分の頭でよく考え理解し、わが身に照らし合わせて得られた智慧。そして、第三の修慧とは、今まで得た智慧を、日常生活に実践し、人生経験を通じて修め、さらに高めて得た智慧、これをいうのです。
しかし、もうこれで完全なものと思ってはなりません。人間の智慧には、まだ自分の理屈というものが入るからです。そのために、教えに従ってご修行というものが必要になり、正しい修行を続けることによって、自ずと智慧が信に高められていくのです。いいかえれば、頭で理解して行うのでなく、正しい信によって、身をもって実践し、いかなることでも、思いを変え、喜びを見出してこそ精進できるのです。また精進する中にも、反省し、感謝の心をおこしていく、こうした心が渾然一体となって行いの上に表われてくる、これがご信仰の極致といえると思います。まだまだ十分に意を尽くせませんが、皆さんと共に、何故信仰が大事なのか、何のためにご信心をするのかということをもう一度、じっくり考え直し、かみしめていきたいと思います。
