明日への指針「第一の矢と第二の矢」

日蓮大聖人は、
「苦をば苦とさとり、樂をば樂とひらき、苦樂ともに思合て、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」
(四条金吾殿御返事)

と、説かれています。
――人生、苦もあり、楽もある。しかし、いかなる苦も楽も、とらわれてはならぬ。
『苦をば苦とさとり』とは、苦は与えられた試練と、受けとめる。
『楽をば楽とひらき』とは、楽に素直に感謝しつつも、とらわれない。
苦も楽も、人生に付きものと受けとめ、信仰を心の強い支えとして歩むことが大切。――
ということです。
阿含経に、次のような話があります。
インドの金持ちに、ヤサという息子がいました。
宮殿のような屋敷にすみ、夜な夜な、歌や踊りの宴をくり広げ、おおぜいの美女たちをはべらせ、あらゆる贅沢をしていました。しかし、次第にこの暮らしにむなしさを覚えはじめたのです。
ある日、
「これは偽りの生き方! 私には真の安まるところがない。どうか永遠なる、真の安楽の境地を得たいものだ。
だれか私に、本当の人間の生き方、絶対安心なる道を教えてくれる者はいないのか?」
と言いながら、当てどもなく町の中をさまよい続けました。
たまたま近くにおられた釈尊が、これを聞き、
「悩める若者よ、私のそばに来たれ。ここには悩みも、苦しみもない、真の安住の境地があるのみ……」
と、ヤサに静かに語りかけました。
あまりにも尊く、気高い釈尊の姿、言葉にふれ、思わず合掌し、
「尊いお方よ、ぜひお伺いしたいことがございます。
出家とは、悟りを求めて世俗の暮らしを捨てること、と伺っています。悟りとはなんでしょうか。
悟った人と、悟っていない人との違いは、何でしょうか」
釈尊は、
「悟った人は、第一の矢を受けても、第二の矢は受けない。
悟っていない人は、第一の矢を受け、さらに第二の矢も受けるのだ。
第一の矢とは、それは身、心に生ずる感覚。
第二の矢とは、それは心に生ずる執着」
と説かれました。
たとえば、満員電車の中で足をふまれて「痛い!」と、だれでも感じます。もちろん、悟った人も「痛い」と思い、時には口に出すかもしれません。しかし、ただそれだけ。
第一の矢とは、この痛いと感じる心です。
違うのは第二の矢。
悟っていない人は「痛っ!」に続いて「痛い目に遭わせたな!」と、怒りの心がわきます。
思わずにらみつけもします。
相手が謝ろうとしなければ、怒りの心を行動にうつし、ふみ返す人もいるでしょう。
これは第二の矢、執着の心があるからです。
臨済宗の僧侶に、十七世紀から十八世紀にかけて活躍した、白隠禅師(はくいんぜんじ)という方がいます。
ある時、禅師のところに一人の若者がたずねて来て、
「和尚さんの怒ったのを見たことがありませんが、腹が立つことがないのですか?」
禅師は、
「バカ言え! わしは石の地蔵さんではない。
腹も立つし、カンシャクも起こすわい」
若者、
「でも、和尚さんの怒ったのを、トント見たことがありません」
禅師、
「わしは腹は立つけど、怒らないだけだ」
腹が立つのは第一の矢で、怒るのは第二の矢です。
腹を立てても、それに執着せず、サラッと受け流すことがもし出来たならば、第一の矢を受けただけで済ますことの出来る、悟った人と言えましょう。
苦しみ、悲しみに満ちているのがこの世。
どうにも納得のいかない、やるせない不条理なことが次から次へと起こります。
不条理とは、道理に合わないということ。
言葉をかえれば、生きる意義を見い出しにくい、絶望的な状況のことと言えましょう。
そうしたことに出会った時、何も感じない人はいません。
一時は悩み、苦しみ、傷つくこともありましょう。
しかし、悲しい時には悲しいまま、苦しい時にも苦しいまま、いつもそのままで生きていく。
いや、むしろ苦の中、悲しみの中にさえも、生きる意味を見い出すことが出来た時、それを悟ったというのでしょうか。
◇            ◇
東日本大震災も時が経過しました。福島原発災害を含め、被災地の復興未だしの感があります。一日も早い復興復旧を願うのみです。
この大震災で、生後数ヵ月の赤ちゃんを亡くした若いお母さんがいました。
一時は悲しみで、狂い死にしそうなほどでした。
幸いなことに、彼女は信仰を持っていました。
やがてお母さんは、絶望の中から、
「○○ちゃん、ありがとう!
わずかな時間だったけど、私は○○ちゃんのお母さんにしてもらったよ。ママは幸せだったよ……」
彼女は悲しみと向きあい、受け入れることが出来ました。
悟ったのです。
苦しみに出会っても悟れない人は、いつまでもとらわれ、くよくよするだけ。こんなはずはない、あんなはずではなかった、とこだわり続ける。
これが第二の矢なのです。
しかも第二の矢は、外から飛んでくるのではなく、自らが矢をつがえて、自分自身に向かって射るのです。
ところで、第一の矢は私たちにとり、不本意な矢ばかりとはかぎりません。楽しい、嬉しいと感じる矢もあります。
この矢に当たって喜ばない人は、だれ一人いないでしょう。ただ、悟った人は、喜び、感謝しながらも、おぼれるようなことはありません。
悟っていない人は、それがいつまでも続くものと執着し、やがておぼれてしまいます。
楽もやがて苦に変わるのです。
執着の心が起こったとたん、第二の矢になるのです。
私たちは、第二の矢を射ることのないようにしなければなりません。それにはまず、悩み、苦しんでいる、あるいは喜び、浮かれている自分と、その自分を外から冷静に見るもう一人の自分を作ることです。冷静に客観視する、明晰な眼をやしなうことです。
もう一つ、いかなる苦しみも、すべてをあるがままに受け入れることです。さらに、いかなる苦難も、己に対する、試練、成長の糧「難有って有り難い!」と思いを変え、受けとめる。苦しくても、辛くても、悲しくても、そのまま。
目を背けず正面から相対し、受け入れることから始めるのです。
逆に、楽しいことも、嬉しいことも、そのまま。
いつまでもとらわれていると、やがて苦の元になってしまいます。
私たちのまわりには、いつ飛んでくるかわからない、たくさんの第一の矢があります。たとえ飛んできても、とらわれの心が起こらないよう、すなわち第二の矢を射ることのないよう心がける。
なにごとも「難有って有り難い」と思いを変えるべく、心がけようではありませんか。