獅子吼会会祖 日現(にちげん)聖人

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会祖日現聖人(以下、会祖)は明治12年(1879)11月19日、千葉県茂原にて、父・重平、母・世与の下、誕生。
24歳の時、母が眼病に罹り、失明寸前となりました。
人に勧められ、大本山鷲山寺に日参し、熱烈な祈願を受けた結果、奇蹟的な現証をいただき、全快しました。

 

 

出家得度

現証を体得した会祖は、鷲山寺に入信。
病、不幸に悩み、苦しむ人々を救わねばならぬ、と決意しました。病人に対し熱烈祈願し、見事な現証を体験させるに及び、全てを救う正法たる本門八品の御題目を弘めることが己の使命と自覚し、出家得度。
貫首の御牧日聞(みまきにちもん)聖人(佛立講2世)から僧名を「現楠(げんなん)」と授けられました(31歳)。
会祖の熱烈な布教ぶりを見た地元の人々から、
「世にも稀な傑僧、日蓮大聖人の再来、今日蓮!」
と、称されたとのことです。

獅子吼会設立

大正2年(1913)2月16日、大聖人ご生誕の日を期し、実家のご宝前にごく内輪の者を集め、大日本獅子吼会(現獅子吼会)の創立を宣言し、正法弘通の決意を表しました。
翌日には、弘通のため、米、味噌などの食糧品を携え、80キロにも及ぶ道のりを厳寒の中、野宿しながら東京に向かったのです。
当時一番の貧民街といわれた浅草橋場で、貧しさ、病に苦しみ、悩む人々を探しながらの、血のにじむような苦難の布教活動でした。持参した物がなくなると、郷里へ戻り、再び品々を携え、往復を重ねたのでした。

念願の布教道場開設

「在家の服装で法を説き、どんな難病でも治す不思議な坊さん」と、浅草界隈で大評判になりました。
大正4年(1915)10月、浅草橋場に借家を借り「大日本獅子吼会橋場親会場」と念願の看板を掲げられたのです。
親会場とは現在でいう本部道場です。

小石川布教時代

大正9年(1920)11月、小石川の水道端に親会場を移転。
これを機に、横浜支部を手始めとして、各地に支部を設立し、東京から地方へと教化の輪を拡げていきました。

昭和本堂建立

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昭和6年(1931)、新宿中井の丘に本堂を建立。
法華経の精神に則った非行少年の育成指導にも着手し、司法保護団体「獅子吼園」を設立。
国の補助金は一切辞退し、運営しました。

 

 

昭和天皇、皇后両陛下に拝謁し、御題目奏上

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布教活動の傍ら、社会事業に取り組んだ功績により、天皇、皇后両陛下に、ご進講する機会が訪ずれました。
昭和21年(1946)9月23日、両陛下の御前に進んだ会祖は「無始已来謗法罪障消滅…… 南無妙法蓮華経」と最後まで唱えたのです。大聖人の念願であった「天朝への御題目奏上」を果たしたのです。

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※昭和29年(1954)、両陛下御乗用のベンツを、永年の法労により賜りました。

 

 

東洋大学救済

昭和24年(1949)、経営難に陥り、廃校の危機にあった大学の救済を要請されました。直ちに多額の援助をされ、長期間にわたり、大学の運営に携わりました。
昭和25年(1950)、東洋大学より、「名誉学長」の称号を贈呈されました。

法華宗管長就任

昭和26年(1951)3月、大本山鷲山寺91世貫首就任。
昭和29年(1954)5月、法華宗(本門流)管長就任。

遷化

不惜身命、止暇断眠の日々の会祖でしたが、徐々に身体の不調を訴えられ、昭和32年(1957)7月28日、弟子、信者の唱題の中、眠るが如く遷化されました(79歳)。